岩倉具視という人間について

 その数奇なる運命は時代の牽引者となり、主役となる星の元にあった。
岩倉具視とは才能の人であった、最高と最低の生活を自分の意思とは関係なく経験し、その中にあっても、ものごとを学びつづけ、広く世界を見渡した人間として知られているが、本当にそうであったかは疑問である。ここでは岩倉具視の生い立ちと、時の権力との係わり合いなど説明しておこう。
 明治前権中納言堀河康親の次男として京都に生まれる。1838年(天保9年)に岩倉具慶の養子となる。当時の岩倉家は、家計は逼迫し、屋敷を賭場にして、その寺銭で糊口をしのいでいた。関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷改革の意見書を提出した。1854年(安政元年)に孝明天皇の侍従となる。1858年(安政5年)に老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京した時に、反対派の公家を集めて阻止行動を起こした(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。1860年(万延元年)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、公武合体をすすめ和宮降嫁を推進した。このため、尊王攘夷派の志士たちは岩倉を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。このため、1862年(文久2年)に京都市の霊源寺にて出家。霊源寺、西芳寺を移り住み、京都洛北の岩倉村に幽居した。
 幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を続けた。この間に薩摩藩の動向に呼応する形で倒幕派へと路線を変更させた。1866年(慶応2年)の徳川家茂の死を機会に朝廷の名において列藩招集を行おうとするが失敗、孝明天皇の死の際には毒殺説が流れ、首謀者として疑われた(一説に自分が成り上がろうとして孝明天皇を暗殺し、幼く操縦しやすい明治天皇を早く即位させ利用した、という説もある)。
 1867年(慶応3年)には王政復古の大号令と徳川慶喜の辞官納地発令を実現し、戊辰戦争へと導いた。
明治維新後、岩倉具視は参与、議定、副総裁、輔相、大納言、外務卿、右大臣と昇任していった。1871年(明治4年)には特命全権大使として、長州藩・木戸孝允らを率いて岩倉使節団を組織し、欧米の文化・制度を視察した。帰国後は征韓論論争において、西郷隆盛を大使として朝鮮に派遣する案に反対して辞意を表明し、その後西郷の派遣を無期延期させた(その結果、西郷は参議・近衛都督を辞職した)。1874年(7年)東京喰違坂附近で征韓論争の結果に不満を抱く高知県士族武市熊吉らに襲撃され、怪我を負う(喰違の変)。
 立憲問題では初めは制定に反対であったが、自由民権運動の高まりや井上毅の具申を受けて方針をかえ、憲法の制定に向けて尽力した。1881年(明治14年)には急進路線を採る大隈重信と対立。漸進路線の伊藤博文らと組んで大隈を政府から放逐する(明治十四年の政変)。その後、皇室財産の確立と華族保護につとめ、華族会館・学習院・日本鉄道会社の設立にも関与した。
 医師エルヴィン・フォン・ベルツによって癌の告知を受ける。岩倉は史上初めて「癌告知」を受けた日本人となった。1883年(明治16年)に咽頭癌で死去、享年59。国葬が執り行われた。墓所は東京都品川区の海晏寺
これが岩倉具視の史実であるが、総じていえるのは常に敵を創り、敵を創ることによって自分自身の評価が高まっていくタイプの人間である。おおもとから考えれば間逆であっても自分自身の考えを180度回転させ信念であるかのごとく扱う、このような人間であっても、さながら維新の時代においては成功者となった。立場も地位も権力も、みな手に入れた、唯本人の信念は何処かに消えたように思えるのは私だけではないだろう。
 維新期には様々な人間が登場した、人の命を奪うことでしか評価されなかったものもいる。次に掲げるのはその代表的な男である。

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