人斬りと呼ばれた男
維新目前にして命を落とした男の中に、人斬りと恐れられた者がいた。目標とするものも無く、ただ研ぎ澄まされた眼光で相手を見据え、息を潜め待つ、今日できなければ明日、明日できなければまた次の日と待つことが仕事のように勤皇の獅子であったのかどうか、自分にできることを探し、周囲の人間が恐れるほどの剛の侍であった。それが、これから紹介する岡田
以蔵である。
香我美郡岩村に二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として生まれる。嘉永元年、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。武市半平太(瑞山)に師事し小野派一刀流剣術を学ぶ。武市の門を叩く前にも、我流ながらかなりの剣術の腕前であったようだ。武市に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。万延元年、武市に従って中国、九州で武術修行する。その途中、豊後岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。その後、武市の結成した土佐勤王党に加盟。しかし、なぜか後に名簿から削られている。武市の意向なのか分からないが、暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出ている。武市が、教養の無い以蔵を、ただ単に暗殺の道具として使ったともいわれている。土佐藩下目付けの井上佐一郎をはじめ、同志の本間精一郎や池内大学、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人
村山加寿江の子、多田帯刀などを天誅と称して暗殺(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。薩摩の田中新兵衛と共に「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられた。八月十八日の政変後、勤王党は失速。武市が土佐に戻ると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。しかし元治元年六月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい拷問を受けた。以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年五月十一日に打ち首、晒し首となった。辞世の句は「君が為
尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。墓所は高知県高知市薊野駅近郊の山中にある累代墓地。俗名・岡田宣振として埋葬されている。
人物
岡田以蔵の事績については同時代資料も本人の書簡なども乏しいが、その性格・性質については幾つかの資料によって伺うことが出来る。『土佐偉人伝』(寺石正路)によれば、「性質は剛勇で武技を好み、非常に逞しい体躯を持った巨漢」であった。もっとも同書は皇国史観に伴って幕末勤皇志士が持てはやされた大正10年(1921年)に記された本であり、いささか美化された感もあるとされる。最近の研究では実際には性格は粗く酒色を好んだとされ、殊に晩年は土佐勤王党の仲間からさえ疎まれていた様である。以蔵が捕縛されたと知った武市半平太は、実家への手紙で「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と、以蔵に良い感情を持っていなかったことが伺われる。以蔵はまた、家が七軒町にあったことから「七以」と軽蔑的に呼ばれていたことも、田内恵吉(武市の実弟)などの書簡として伝えられる。

一説によれば、以蔵の捕縛を知った武市は彼の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたとさえ言われている。これは小説をはじめ広く知られるエピソードで、それらによればこの際、武市は性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配したとか、以蔵が軽輩故に他の同士より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、また、毒を送られた以蔵はそれを(毒とは知らずに)服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に解釈されている。
こうした点が、武市から見た以蔵が「ただの暗殺の道具」に過ぎなかったのではないか、とされる所以である。以蔵が晩年、武市らから冷遇されていた理由について諸書の記述によれば、他の同志より身分が低く教養が無いことによる差別的感情、彼が手がけた数々の暗殺が露見することにより他の同志に累が及ぶ危機感、彼が自刃してしまえばその露見が防げるにも拘らず彼自身がそれを行わなかったことに対する焦燥感や怒り、さらに“尊王攘夷・倒幕”を旨とする土佐勤王党に属しながら“開国派・幕臣”の勝海舟らの護衛を行うなどした(後述)ことにより“剣術こそ強いが確固たる思想・信念を持たぬ者”として軽蔑されたこと、などが原因ではないかと考えられている。
後に、岡田以蔵が所有していたとされるピストルが発見され、2006年7月1日より8月31日にかけ、高知県立坂本龍馬記念館の催し『それぞれの幕末‐龍馬・半平太・そして以蔵』にて展覧された。同館の説明によればこれはフランス製で、勝海舟より送られたものだという。ちなみに「ピストル」とは公開の折に称されたものだが、実際には回転式短銃(リボルバー)であり、厳密な意味でのピストルではない。なお、当該短銃は個人所有の物を借用し公開された。また、これとは別に中浜万次郎が護衛を受けた際に自らの短銃を以蔵に託そうとしたが受け取らなかったとの伝承もある。ただ、以蔵がこれら短銃を使用した記録は無く、詳細は不明である
これが 岡田以蔵という人間について記されたところである。このことから何を学ぶかが大事なことである。
自らが同志であると信じていた土佐勤王党、師事していた武市半平太にさえ最後は見捨てられる、斬首の上晒されて恥とさげすまれて、それでも彼は存在したのである。維新のためには必要だった。そう言えるのだろうか、行動の善悪は後の人間が判断すれば済むことだが、その時はどう感じ、どう考えたのか、大きな目標のためにそれは為されたのであろうか、彼自身が考えても答えは無いことだろう。総じて言えることは、皆自分のためではなかった、そして現在の為でもなかった。必ずやって来る次の時代、そのために動いたのである。自分の命すら無くしてもいいし、たとえ他人の命であっても、それを奪うことも止むなしとされたのである。それをおこなった代表が岡田以蔵であり、人斬り以蔵なのである。この男の存在が維新のスピードを速めたと認めてもいいと感じるのは私だけなのかもしれない。
これまでに紹介してきた者のうち英雄と称されるのは、最初に紹介した高杉晋作ぐらいであろう。高杉も山内も岩倉もまた新しい時代を待っていた。人の意見に左右されたとしても自分の意志で動いた、時代を生ききった感じがするし岡田は闇を生き抜いた。誰も間違いではなく井伊直弼においても死んで意味を大きくした。これが維新の一端なのである。これから紹介する主役たちは、日の目は当たらなかったが、敵対する新撰組や明治新政府の基礎、薩摩、長州、土佐、備前などの各藩に確かな足跡を残した者たちの生きた証拠を、かいつまんで紹介するものである。
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