時代の変遷の中でときおり、悪役をしなければならない人物もいる。

 功績こそすごいものであっても後に嫌われる、坂本竜馬や西郷隆盛がヒーローに成れたのだって、それに見合った嫌われ者が存在したからであろう。その一つが徳川幕府全体であり、代表が安政の大獄で命を落とした大老、井伊直弼である。ここで井伊直弼についてその生涯を簡単に説明しておこう。
 井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日、第11代彦根城主の井伊直中が50歳のときの第十四男として生まれました。青年時代は井伊直孝の遺訓による藩の掟により不遇の時期を過ごしましたが、後に第12代藩主・長兄の直亮なおあきの養嫡子となり、直亮の没後、第13代彦根藩主となります。嘉永6年(1853年)アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには開国を主張し、前水戸藩主の徳川斉昭と対立しました。
また、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福よしとみを推挙、一橋派と対立しました。安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂いえもちを将軍継嗣に決定します。その後、「安政の大獄」と言われる攘夷派の志士の弾圧を行い、このこともあり安政7年=萬延元年(1860年)3月3日、桃の節句の祝儀に江戸城に参上の途中、桜田門において水戸・薩摩の浪士に襲われ命を落としてしまいました。開国の英雄井伊直弼はこの大偉業をなしとげた大老の心情を、くむことのできなかった人々によって春雪を血に染めて消えた。時に46歳であった。


 主役たちの登場前に命を落とすことになったが、260年続いた鎖国制度を崩壊させ新しい時代の到来を、待ち望んだ男であり、もっとも先進的な考えをしていたことも理解できる。だがなぜ彼を旧体制の代表のように考えさせられるのかといえば、それは幕府の役職では最高の位置まで進んだ人間だったことと、直弼の命を奪った水戸藩や薩摩藩は後に英雄と称される人物を排出したからではないのだろうか。
 直弼を切ったのは水戸脱藩浪士であるとするならば水戸本家からは御三卿の一ツ橋家があり、最後の将軍、徳川慶喜が存在するし、薩摩藩の浪士だとすれば藩主は島津斉彬であり薩摩の英雄、西郷隆盛が存在する。維新というイメージには幕府の司令官はあまり相応しいと思えない、水戸の脱藩浪士たちは外圧に屈した幕府を嘆いて行動を起こした。なのに勤皇の獅子扱いはおかしい、彼らはレジスタンスではなく、旧体制の温存派である。井伊直弼がいたから開国の道ができたことは紛れの無いことである。不公平な条約であったとしても、大陸の植民地にされた国々を見ると、その差は歴然としている。そのころの欧米諸国においては、この日本という国は、魅力の無い国に見えたのかも知れないが、後に銀の産出量では世界一となり、金及び銅の産出量においても世界を代表する地域であることは、まだ知られていなかったのである。もし直弼が開国を拒んでいたなら、多量の血が流され沢山の命が失われていただろうし、国家としての独立は無かったであろう。いわば日本の恩人とも言うべき存在であるにも係わらず、大老職というだけであまり取り上げられない。せいぜい桜田門外の変で命を落としたくらいにしか学ばれてこないのであるが、直弼の功績は現在の日本の基礎とも言うべき大役をやってのけたのであり、和をもって国を治める、の精神が生きていると考えられる。その証拠に、直弼の携わった仕事の殆どは戦闘にならずに、和睦によって進められていた。但し言論においては一歩も引かず将軍職にまで自分が適任だと思える人間を推挙して、大納言、中納言、少納言とも対峙して戦う男気ある性格だったのである。この英傑に時代は何を求めたのか、そしてその命は時代にどう刻まれたのか、しっかりと学ばなければ維新は語れないのである、だが後の世を語る事こそが維新であったのかもしれない。
 幕府から政府へと移り変わるときにいた者たちの中には、立場の違うものたちが多く存在した。その中で公家の代表として存在し維新政府樹立の立役者として知られるものについて紹介しよう。


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