維新というこの時代に見落とされがちな人間の中にも大切な存在であったものがいる。その一人が土佐の山内容堂である。歴史的な観点と史実を先に説明しておこう。
豊信(容堂)は12代藩主・山内豊資(とよすけ)の弟・山内豊著(とよあきら)と側室・平石氏との間に生まれた。幼名は輝衛。豊信の生家、山内南家は石高1,500石の分家で連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。
13代藩主・山内豊熈(とよてる)、その弟で14代藩主・山内豊惇(とよあつ)が相次いで急死した。豊惇は藩主在職僅か12日という短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範(とよのり))が居たが僅か3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年12月27日、豊信が藩主に就任した。また、この時に智鏡院の養子となり、土佐藩を継いだ。智鏡院は「賢夫人」と称されており、豊信はその智鏡院の養子となり育てられた。豊信は、智鏡院に影響されて育っていったため、数々の名歌を残した豊信の才能は、智鏡院の影響が多いといえる。
藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて藩政改革を断行した。翌、安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし3年後の安政4年(1857年)東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。13代将軍・家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用し政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。容堂は、思想が単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。
謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊皇攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。
文久3年8月18日(1863年9月30日)京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。


しかし、東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。
慶応3年(1867年)6月22日、 京都において、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛と土佐の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟・寺村左膳・間部栄三郎が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土同盟が成立した。これにより、土佐藩全体が徐々に倒幕路線に近付いていくことになった。
容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた時の藩参政・後藤象二郎はこれらを自分の案として容堂に進言した。容堂はこれを妙案と考え、15代将軍・徳川慶喜に建白した。これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に大政奉還した。
しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列候会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した。また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことについては、薩摩、土佐、尾州、芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと、これまでの幕府の責任、すなわち異勅の不平等条約締結や安政の大獄や第二次長州征伐など私怨による粛清の嵐などを全く無視した徳川宗家擁護を行い、つい先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したばかりなのに、徳川氏を中心とする列侯会議の政府をいたずらに要求したりした。ただでさえ、気に入らないことがあると大声で喚(わめ)き散らす悪弊のある容堂であったが、その上、酒乱状態であり、「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威を欲しいままにしようとしている」などと発言してしまった。堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されてしまった[1] [2] [3]。酒乱の上に負け犬の遠吠え状態にある容堂にまともな返答ができるはずもなく、容堂は一瞬のうちに不忠の国賊的暗君に転落してしまった。以後、会議は、容堂を無視して、天皇を中心とする公議政体派すなわち倒幕強行派のペースで進んだ[1] [2]。
容堂は、慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で戊辰戦争が勃発すると、自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、土佐軍指揮官・板垣退助はこれを無視し、自発的に新政府軍に従軍した。容堂の権威は徐々に失墜していたことに気付いていなかったのかもしれない。
 歴史上、史実としてはこのような内容で知られることとなるが、容堂の凄いところは大政奉還に至るときに幕府及び各藩が朝敵にならない方法を模索した唯一の大名であることに他ならない。長州も薩摩も、徳川幕府に対しては大政奉還してもしなくても罪ありきの思想は変わらなかった、又、公家の思惑も幕府憎しで固められていたのである。
一切の敵を創らずすべて時代の決めるままに、その考え方だけは間違えではないと学んだ気がする。
 明治維新などと後で称せれた時代に、この男の存在は大きくもあり又、小さくもあったのである。


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