維新に学べ
 幕末の動乱期に、彗星のごとく現れ、時代の変化とともに消えていった。若き勤皇の志士たち。
時代は移り変わろうとしていた。誰もがそれを感じていた。もし坂本竜馬がいなかったら、西郷隆盛がいなかったら
明治維新はなかったのではなどと聞くことがあるが、それに対して意見を言わせてもらえば、その心配は無い物と思う。なぜなら江戸幕府にも海外の欧米列強と互角に渡り合えるだけの「博識者」はいた。そのうちの一人が小栗上野介であり、勝海舟であった。又、「大政奉還」をした徳川慶喜にも、その力量と要素は充分にあったと思はれる。
天皇を中心とした近代国家の形成は時代が決定した事実だった。そう考えられないことも無い。但し登場人物については、みんな個性の塊のような人物ばかりだ。時代に選ばれたものと時代を選んだものの違いはあるが、一人一人輝いていたものだったろう。そして希望と挫折の中でどのようなドラマが在ったのか幾つかエピソードにあわせて紹介したい。

 この人の名前は知っていると思うが、長州の高杉晋作について、、、、、
高杉晋作は、萩の城下菊屋横丁で父小忠太、母道の子として生まれました。高杉家は200石取りで萩藩の重要な役職についていました。幼少時代は剣道に励みたくましく育ちます。 17歳で吉田松陰の松下村塾に入門。ひとつ年下の久坂玄瑞と競って勉強し、晋作は『鼻輪も通さぬ放れ牛、束縛されない人』、玄瑞は『政庁に座らせておけば、堂々たる政治家』とたたえられ、のちにふたりは松下村塾の双璧と呼ばれるようになります。
司馬遼太郎氏の著書『世に棲む日日』には、晋作が始めて久坂玄瑞に連れられ松下村塾をたずねたときの様子が次のように書かれています。松陰はうなずき、ふたたび顔を伏せて高杉の文集を読んだ。やがて顔をあげ、最初にいったことばは、高杉が終生わすれられぬところであった。「久坂君のほうが、すぐれています」と、いうのである。高杉は、露骨に不服従の色をうかべた。(おもったとおりだ) と、松陰はおもった。人を見る目が異常にすぐれている松陰は、この若者が、裏へまわってここへ入ってきた最初から、尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身にもっている異常なものを、ところどころ破れてはいても行儀作法というお仕着せ衣装で包んでいる。それも、やっと包んでいる。---奇士が、二人になった。 と、松陰はおもった。時代を切り開くものと、、、、、、
 維新を語る上で欠かせないものに思想の大きな移り変わりがある。これは一個人の思想ではなく社会全体の雰囲気とでも言うべき流れのようなものがある。要はその流れを自在に扱えるか否かなのである。高杉は自在に扱えたのである。
 維新とは後世において歴史を振り返って初めてその時代を称するのであり、最初から維新にめがけた物ではない。
19世紀のアジアは欧米の進攻をいつ受けても仕方が無い状況であった。その中にあって日本は、植民地支配も受けずに独立国として歩むことが許されたのは、この維新を乗り越えた実績があったからである。
陸戦の高杉は倒幕のために戦いながら、後世のために外国の圧力とも戦っていたのである。
 二十歳のとき 江戸から信州を回って旅をし、佐久間象山に会い「外国を見なければならない」と教えられ、その二年後の文久2 年(1862年)、藩命を受け五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航しています。アヘン戦争に 負けた清国の姿を見たことが、後の晋作の人生に大きな影響を与えることになりました。
 文久3(1863)年に長州藩が関門海峡を通る外国船を砲撃しました。ところが、同年6月に報復攻撃を受けました。この時、高杉晋作はまだ萩の家にいましたが、藩主から呼び出され、下関の白石正一郎の家に行き、早速奇兵隊を結成しました。奇兵隊は、武士、農民や町人の区別なく、志のある者を集めた新しい考え方によって組織された軍隊で当時の日本では最も強い兵力となっていきました。 奇兵隊の本営は、はじめ白石正一郎宅に置きましたが、隊士が増えたため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ移りました。高杉晋作は奇兵隊結成2ヶ月後に総督を辞め、 しばらくは下関を去っていました。再び、下関に登場したのは1年後でした。それは 4カ国連合艦隊が来襲し、長州藩と講和をするというときでした。会談では、下関の彦島をイギリスが租借するという話と賠償金300万ドル支払の話がもちあがりましたが、2つとも断ってしまいました。ところで、当時の長州藩には倒幕を主張する“急進派”と“俗論派”がありました。この二つの派を倒幕にまとめるためついに、元治元年12月15日、長府の功山寺で、高杉晋作は決起しました。わずか80人の兵でした。最初、下関の新地町にあった萩本藩の出先機関「新地会所」を襲い、つぎつぎと戦果を上げ、ついに俗論派を倒し、藩は倒幕に統一されました。 慶応2(1866)年、幕府の長州征伐が始まりました。この“四境戦争”のとき、高杉晋作は病気(肺結核)をおして、小倉口の戦を指揮しました。長州藩は勝利をおさめましたが、病気には勝てず、ついに新地町の林算九郎宅で、慶応3(1867)年4月14日、短い一生を終えました。27歳と8ヶ月でした。 遺言により吉田清水山に葬られました。高杉晋作の号、“東行”の墓の近くには、伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があり、“動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし”と刻まれています。日本は同(1867)年12月9日、王政復古を実現しました。高杉晋作は、まさに「時代をかけた男」だったのです。
どんな逆境にあってもその志を失うことなく生きることが大切なのである。高杉の偉業はまだ沢山あるのですが、彼の志の根底にあったものは、この国と故郷を愛してやまない心と信念の強さ、更には大いなる勇気だったのではないかと思う。只、時代は彼さえも歯車のひとつとしか考えていなかった。死して後に功績や能力を称えられる事は本人の望んでいた事ではなかったと思うのである。ではなぜ維新という時代に傑出した才能の持ち主が多く現れたのかというと、元々いたのである。時代背景や方向性は違っていても、元々いたのである。憤懣やるせなき時、それは強大な力になり民衆の先達となりうるのである。さて、高杉にばかり時間をかけて入られないので次え進むこととする。

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